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1995年、1月17日5時46分。マグニチュード7.2の巨大地震が阪神・淡路を襲った。スタジオと自宅の入った5階建てのビルは天井と壁が抜け落ち、家具は吹き飛んで部屋中に散乱した。慌てて外に飛び出すと、目の前の光景に立ち尽くした。
「長田は全滅や。戦災にあったときの悲惨な記憶が一気に蘇ってきた。……あれは今でも悪夢のようや」
ふと、2日前に撮影した成人たちの写真が気にかかった。ラボは半壊して、フィルムは未現像のまま瓦礫に埋まってしまっていたのだ。
「でも、袋に入ってたからしわくちゃになった程度で済んだんです」
フィルムはなんとか大阪で現像してもらうことができた。無事に仕上がった写真は83枚。しかし、受け取りにやって来たのはわずか40人余りだった。
「きっとそれどころやなかったんやな。でも、あの写真は彼らにとって人生の節目を飾る大切なものなんや。本人に持っていてほしい」
写真を手に、一人ひとりを訪ねてみようと、このとき決めた。 |
一生の宝 |
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瓦礫の山と化した神戸の街を撮影伝票だけを頼りに探し歩いていたある日。
「なにか、手伝うことはありませんか」と、テレビ局のスタッフが訪ねてきた。
震災地を取材でまわっていた彼らに、“私は無事です。○○にいます”という張り紙を瓦礫からみつけてはメモしてもらい、松原さんはそれを頼りに彼らの居場所を捜し歩いた。
「幼いときの写真も成人式に着た晴れ着も、全部燃えてしもうた女性がいた。彼女は私が渡した写真を見たとき、泣いて喜んでくれたんや。“一生の宝にします”って」
彼女の涙は言葉より多くの喜びや悲しみを語っていた。自分が撮った写真から、ふたたび新たな人生の思い出づくりが始まる。一人ひとりの手に届けていくたびに、写真が持つ大きな意味を改めて感じ取った。
83枚の写真は、すべて本人の手に渡った。気づけば時はもう7月になっていた。犠牲者が一人も出なかったのは奇跡だった。
「最後のひとりに写真を渡し終えたときは、緊張の糸がプツリと切れたな。不思議とあのとき撮影した83人の顔ははっきり覚えてるんや。お互いにな」 |
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≪分類≫
写真目
人物科
≪生息地≫
神戸市長田区
≪年齢≫
75歳
≪分布≫
若松町周辺
≪活動時間≫
9時半〜18時半
≪好物≫
カメラ(スウェーデンハッセルブラッド、コンタックス、ライカ)
≪相棒≫
カメラ
≪天敵≫
ナシ
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